ある時思い立って、雑多なものを雑に収納している戸棚の整理を始めました。
思った程不要な物を溜め込んでいた訳ではなく、雑然としていたのは物の置き方が悪いんだなと思いました。
重なり合った物の下から、屋久島の白谷雲水峡を写したポストカードが出てきました。
私は独身の頃独り暮らしをしていて、玄関の靴箱の上に花を一輪、気に入りのポストカードを一枚飾るのがちょっとした楽しみでした。
出て来たポストカードは友人と屋久島に行った時に購入したものです。
美術館や展覧会、お洒落な雑貨屋さんなどに行く度に気に入ったポストカードを購入しました。ですので、かなりの数のポストカードを持っています。
またどこかに飾ろうかなと考えましたが、何となく気乗りせず。
でも、放置していると物は有限ですから朽ちていくだけです。
勿体ないなあと思って、もう使ってしまおうかなと考えました。
でも、「誰に?何書くの?」と思って、またまた気乗りせず。
ふと、「人とのつながり」って何だろうと思いました。
私は今、とても狭い世界で生きています。コロナも相まって、本当に限られた人としか接点がありません。
だからなのか最近、人の輪を、つながりを広げたい気持ちがぷくぷくと湧き上がってきています。
でも、じゃあ今が寂しいのか、嫌なのかというと全然。全く。むしろいい感じです。
十代、二十代の頃は親しみやすさや社交的なことや皆と上手くやることが「良い事」だと思って、そして、何だか周りや社会からも人の在り方としてそれを求められているような気がして、そういう自分を設えていたように思います。心理士なんてしていると特に思いますよね。
でも、年を重ねて経験を重ねて、心や感覚に正直になって、自分はあまり人付き合いが得意ではないのだと理解しました。相手に合わせてどうこうするのが、実はとても嫌なのだと分かりました。
ただ、私の周囲を見渡すと、近くでも遠くでも、今尚つながりがある方たちは皆、自分がとても信頼して心を寄せている方たちでした。
「表面的なつながり」でつながっている方何てどこにもいない。そういうつながりはとっくに自然消滅していたみたいです。
それを思うと、もしかしたら、親しみやすくて社交的で、皆と仲良くしていると思っていた自分すら、実は私の思い込みだったのかもしれません。
昔から人も物も、本当に「良い」と思うものしか受け付けられなかったのかもしれないなと思いました。
手元のポストカードを眺めながら、「でもやっぱり、出してみようかな・・・」という気になってきました。
私の手元にある「つながり」が表面的ではない大切なものなんだったら。
そのつながりの先にある誰かに、特に用がなくたって突然ポストカードを送りつけてもいいよね?
密やかに。悪戯っ子の様に。甘やかに、そのつながりをなぞる様に・・・。