Healing Space Maria-juの架け橋ブログ

Healing Space Maria-juが贈るチャネリングメッセージとスピリチュアルライフの実践ブログです。

終わりなき命題

京都は雨模様で、すっきりしないお天気が続くと体も何だか重い気がしてくる今日この頃です。

 

毎年季節の境の頃は着る服に悩むのですのが、今年は今も着る服に悩む。

今って夏でいいですよね?

何だろう。今年は季節の定義にも悩む。

だって、岩倉は未だに「暑い!」と「寒い!」が混在しているんですよ。

窓開けて、羽毛布団で寝てる。何だそれ。

 

クローゼットを全開にして、服を眺めていると「着る服がない」なんて有り得ないと思う。そこにはたくさんの服が並んでいるのですもの。物理的に「ある」。

じゃあ、「着る服がない」って実際何の事だろうと、ふと考える。

 

服を選ぶ動機って実は様々だと思うのですよ。「着たい」だけでは選んでない。

今、私が服選びで重視しているのは機能性。

楽である。少々汚れてもいい。犬の毛が付き難い、もしくは付いても目立たない。洗濯機でガンガン洗える。

要するに「気楽に着れる服」がいい。

これを前提にもう一度クローゼットを眺める。そこにあるのは「余所行きの服」。

と言うか、私が「余所行きだ」と思って着ていた服。

 

私の生活は、大体家の中とその周辺で完結します。だから、私は自分を「スーパーインドア派」と思っているのだけど、意外にも服はインドア派ではなかったな、と。

まあ、今は特に移動を制限する社会的、心理的な流れがあるので、余計にギャップを感じるのだろうという気はするのだけれど。

でも、私は結構服って何年も持っていて、同じものを着ることも多いのですが、やっぱりその年その年で買い足しているものがあって、自分の関心の変遷がそれなりに分かるなと思う。

 

ただ、じゃあ今、自分の思うような服がないとして、あるものを処分して買い替えるかといったら、それはしない。

私は今あるものを活かす方がいい。自粛生活が始まって、本当にそう思うようになった。

「物がある」というのは幸せなことだな、と思う。

以前から、本質を履き違えたような断捨離は嫌いだけれど、今のような不安や欠乏感や危機感が蔓延している状況下では特に、すぐ使わないにしても「ある」と思えることの安心感ってすごい。

溜め込み過ぎるのはどうかと思うけれど、「物を大切にしましょう」の意味を、今だから味わい直してみることは実りがありそうだと思います。

 

さて、余所行きだと考えていた服たちを「普段着」にしてみる。

家着の質が上がって、何だか少しリッチな気分になった。お洒落着洗いじゃなくて、普通に洗濯機でガンガン洗っていい服が結構あることを発見した。「ほとんど着てないな。勿体ないな」と思う服が激減した。「余所行きの服」がほぼなくなって、「ちょっといい所」に行きにくくなった。

 

「着る服がない」と悩む時間が終わりを告げたかというと・・・やっぱりいつも思ってる。「何着ようかな。着る服ないな」って。

毎日の服選びは、もしかしたら「自分を定義する」という終わりなき命題であるかもしれない。