生きる者は誰しも必ず過ちを犯す。
自らの過ちを悔いることは自然な在り様だ。
悔いることは、自らの考えや心を育ててくれる。
ただし、悔いることを超えて己を苛み続けたり卑下することは、苦しみと飢餓を育てはするが、自らを未熟なままに縛り付ける。
我らは犯した過ちに憤ることあれど、それを過ちと認め、悔いている者を苛み続けることはしない。それが己であれ、他者であれ。
苦悩を抱え、それでも前に進もうとする者ならば猶更だ。
人は犯した過ちに憤るだけでなく、過ちを犯した者を徹底的に苛み続ける。
過ちを過ちと認め、悔いていようとも。自らを変えようと精魂を込めて努めていようと、いつまでも蒸し返して苛み続ける。それが己であれ、他者であれ。
そこに在るのは正しさではなく、快楽であると知ることだ。
優越感という快楽。自己憐憫という快楽。
自他に牙を向け、爪を立てて得られる快楽を人の多くが欲している。
その様は最早、人が言うところの「妖」だ。
過ちを犯した自他に執拗に牙を突き立てたくなったなら、自らに問うてみるといい。
「私は何者でありたいか」と。
そして、静かに己の心を観るといい。
そこには怒りと呼ぶには仄暗い情念が蠢いているはずだ。